経験学習のススメ

経験学習デザイナー 阿部久美子のブログです

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最後に決めるのは「心」

経験から学ぶためには、自分の経験を深く振り返り、それらを多様な視点から
分析する力が求められています。
経験を分析するというと何だか難しく聞こえますが、私たちは知らず知らずの
うちに自分の経験を分析しているのです。

私の場合分析し切れない経験に遭遇すると心が落ち着きません。ザワザワした
り、腹が立ったり、憤ったり、不安になったり、と心が「何か違うよ!」と
騒ぐのです。

ある日の出来事。ちょっと複雑な状況を経験しました。
私の中に存在するいくつかの「私」が意見を戦わせています。

 私の中のA子は分別臭い顔で、「~だから、~すべきだ」と正論を吐き、
 私の中のB子は怒りながら「そうはいっても、○○に関しては、相手に非が
  あるので譲れない」と批判者を演じ、
 私の中のC子はしらけ顔で「一生懸命考えたって、どうせまた同じ事よ」、
  と無責任な態度をとる。

こんな時、皆さんだったら、どうしますか?
私が取ろうと思う戦略は次の通りです。

一つ目の戦略 : とりあえず考えるのをやめて、気分を変える。
二つ目の戦略 : 1人1人の言い分をとことん聞いてやる。
         何故そう思うのか?何故腹がたつのか?
         何故そんなに投げやりなのか?
三つ目の戦略 : そこにない視点を探して見る。
         まず見えている世界を「ホントにそう?」と検証してみる
         自分の「正論」は相手の「正論」?と検証してみる
         自分の判断は、判断する必要があるのか、判断の基準は何か、
         検証してみる
         ほうっておいたらどうなるか?最大のリスクを推測してみる


私はたいてい二つ目で経験を分析し、ダメなら三つ目、それでもダメなら一つ目の
戦略をとって出直します。
(もちろん、そんな風に出来ずにいつまでも悶々とすることもありますが・・・)

そうこうしているうちに、「心」が落ち着く何らかの考えに出会うものです。
最後の決め手は、やはり「心」が落ち着く落とし所かな。

何だかんだといくら考えたって、最後は「心」。
いくら理詰めで正しても、心はごまかせません。
しかし、色々な視点で分析する思考は、「心」の落ち着くよりどころとなる
考えを導いてくれることもあります。
「心」と「思考」は切り離せないものです。

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素敵な歌詞

昨日、ボーっと見ていたTVで、どなたかの作詞作曲の歌が流れていました。
その中で聞こえてきた歌詞にうっとり。前後は良く分からないのですが、

‘あなたは私の一部、私はあなたの一部’ こんな言葉が聞こえてきました。

この歌詞を聞きながら色々なことを思いました。
  私は私の母の一部であり、母は私の一部である。
  私は主人の一部であり、主人は私の一部である。
  私は子供たちの一部であり、子供たちは私の一部である。

円と円を重ね合わせた集合の図が思い起こされました。私の円と相手の円が重
なったところが、この‘一部’をつくっているに違いありません。
でも、私の‘一部’の見え方と、相手の‘一部’の見え方は違うだろう・・・
しかし、それでも’一部’には違いないのです。
この重なった部分には、ともに過ごした経験が詰まっているのだろうと思い
ました。

    
今日は某協会の設立40周年記念式典に出席してきました。設立当時からの
沢山の方の祝辞が続きます。そこにはその方々の沢山の経験が凝縮しています。
経験を話している人って、素敵だな・・・
それらの経験は、きっとその方たちの人生の一部なんだろうな・・・
その方たちの経験は、この協会の歴史の一部なんだな・・・
1人1人の祝辞から、その方たちの歩んだ人生を感じとることができました。
こんな風に話が聞けている私に、ちょっとびっくりしました。
だいたい祝辞ってあくびが出るものなのですが、今日は違いました。

一回しかない人生を、どう過ごすのか、どう過ごしたのか?
人として生まれた私たちの唯一の宝物、それは経験なのだと思います。
その時その時は、面倒臭かったり、ややこしかったり、辛かったりしたこと
であっても、振り返ってみると、自分を成長させてくれるもの。それが経験の
良いところだと思います。

経験て、きっと人間にしか語れないものなのですね。
経験に勝る宝物はないですね。
神様は、人間に経験を振り返り、分析し、そこから意味を見出す能力を下さった。
面倒臭がらず、おっくうがらず、もっともっといっぱい経験して、豊かな人生
をつくりたいなと思った一日でした。


正論も質問で

先週あるテーマについて関係者と2回にわたって議論をしました。
私の述べた意見に対して2人の人から「それは正論ですよね」と言われま
した。結局私の意見は「正論」と片付けられ、扱われることはありません
でした。なんとなく小さな違和感を引きずっています。

正論を辞書で引くと「道理にかなった議論 例―正論を吐く」とあります。
道理とは、物事の正しい道筋、人としての正しい道、
では、正しいとは何か?
曲がっていないこと、よこしまでないこと、良いとするものや決まりに
会っていること、きちんとしていること


うーん、確かに正論という言葉には私の好きな言葉が並んでいます。
私はどちらかと言うと正論が好きなのです。
分かりやすいし、判断の一貫性が保てるし、原点に戻れるし、フェア―だし、
しかし、世間一般では、‘正論を吐く’という例のように、正論に対して
ネガテイブな捉え方も少なくありません。

しかし、確かに会議などで、皆で一生懸命歩み寄ってもう少しで合意に至る
と言う時に、急に正論を持ちだして、ぶち壊しにする人がいます。
その正論が、それまでの議論により深い洞察を与える場合と、その正論が、
それまでの議論を無駄にする場合とがあるのだと思うのです。

そんなことを考えながら、先週の議論を振り返ってみました。
私は言いたい正論が、相手に届くためにはどうすれば良かったのか・・・・

ここまで書いている間にも私の頭は振り返りモードでフル回転。
なあんだ。答えは簡単でした。
意見ではなく、質問にすればよかったんだ。

 ~という視点ではどう考えますか?
 最初のお考えと矛盾が出ますが、その点はどう思いますか?

自分がこれが正論だと思っているポイントを、質問に変えてぶつければ
良かったんです。
普段から意見より質問の方が効果的です、、と言っているのに、自分の問題に
なると、「正論」という意見を述べていたことに気付いた次第。

そういえば、ドナルド・ショーンが言っていましたね。
言っていること(What you say you do) とやっていること(What you do)
の違いに気付きなさいと。

次回には質問で臨みましょう




混迷の場

皆さんが最近参加した会議では、どんな場が出来ていましたか?
私が会社勤めをしていた時、思い出しても胸が痛むほどこんな会議をたくさん
経験してきました。

 ・自信なさげな表情で状況を説明する人
 ・自分のせいではないと、斜に構えて向き合おうとしない人
 ・言い訳ばかりして逃げようとする人、
 ・会議さえ終わればこっちのものとばかりに、頭を下げまくる人
 ・逃げ打ちながら話す人
会議に参加している人に、その場はどんな風に移っているのでしょうか?
会議はきっと楽しいものではなかったはずです。

犯人探しをしたり、責任追及したりする場には、誰も参加したくないのです。
それどころか、そんな場をつくり続けていると参加する人々は、その場にふさ
わしい変化を起こし始めます。

まずはじめに、参加する人々は自己無力感に支配されていくでしょう。
  ・私にはそんな力がない
  ・自分に出来るはずはない
  ・自分はやりたくない
さらに参加者は生きるために、鎧をまとうようになるかもしれません。
  ・適当にやりすごしておけばよいか。
  ・これが集団の正義だ。
  ・みんなで渡れば怖くない。

1人1人の態度やあり方をとやかく言う前に、まずは、その場を整えなくては
ならないと、私は思います。生産的な話し合いの場、学びが降り立つ場をつく
ることが先決なのだと思います。


これまでの私たちは、小規模のグループは第三者の介入よって場が改善される
ということについての学習を積んできました。
しかし、今の政治の世界が作っている場、大きな勢力闘争の中で混迷を極めて
いる政治の場では、どうすればよいのでしょう?誰も答えを知っりません。
こういう混迷期には、強力なリーダーが現れて欲しいものですが、どうやら、
歴史は、その方法以外の学習を私たちにもたらそうとしているように思えます。


今の政治の場は、今後どんなふうに変わっていくのでしょうか?
多少の時間をかけながら、右に揺れたり左に揺れたりしながら、政治の場も変
わっていくのだろうと思いますが、どんなふうに進化するのか?

国中の人々が、今の政治を経験しています。
これはひとつの進化かもしれません。
 日本という国の進化の過程から、目が離せません。
 私もその一億三千の細胞の一つですから。

「参加」と「学習」の相関関係

いやだなあ、私に関係ないのになぜこんなこと頼まれるのだろう・・
何故私が間に立たないとならないのだろう・・・

こんな気持ちで、誰かに何か難しい問題の解決を頼まれた時、なかなか解決策
が出てこないことがあります。逃げたい気持、面倒くさい気持ちばかりが先行
して、問題の本質がなかなか見えてこなくなってしまいます。

今日の私はまさにそんなことを経験しました。
朝から母の相談にのっていたのですが、3時間もかけて話し合ったのに、出た
解決案は不十分。結局夜、もう一度話し合う羽目に・・・・
私たちは、その問題に十分に参加していないと、どこか人ごとだったり、
本気で考えないのです。


目の前に与えられた私たちの仕事にも同じことが言えそうです。
同じ仕事をしていても、1人1人、その仕事への参加意識は様々でしょう。

 ・生活に必要なお金を稼ぐために参加している。
 ・他にやることがないから、とりあえず参加している
 ・会社の命令でここに参加している。
 ・自分の技術を磨くために参加している。
 ・自分の力をためしたくて、参加している.

何のためにこの仕事に参加しているのか、
何のために、問題を解決しようとしてそこに参加しているのか、
自分の参加の意図に気づいてみましょう。

必要な学びは、その人の参加意図にそってやってくるのだと思います。 
 ・お金だけを稼ぎたいという人には、そのことの経験と学習がもたらされ
 ・何かを達成したい人には、そのことの経験と学習がもたらされる。
 ・リーダーシップを発揮したいと願う人には、そのことの経験と学習がもたらされ、
 ・自分を磨きたい人には、そのことの経験と学習がもたらせるのだと思います。

どうやら参加の程度と学習の程度には、深い相関関係があるように思います。
 何を学ぶかを決めるのは自分自身なのだ、と改めて思った次第。

「振り返り」は学びを引き寄せる

ある時、「振り返っても学べない時はどうしたら良いのですか?」という
質問をもらいました。
そんな難しいことを聞かれても・・・
という思いはありますが質問者の気持ちが分からないわけではありません。

コルブの経験学習サイクルでは、
 具体的経験 ⇒ 省察的観察 ⇒ 抽象的概念化 ⇒ 実践的行動
という学習プロセスが書かれているので、そんな風に思ってしまのかもしれ
ません。

この経験学習のサイクルは、
「私」という世界の中の全ての経験が、「私」が過ごす長い時間軸の中
で複合的に絡み合いながら、まわっているのだと思います。

例えば、
今日した経験を振り返って、何らかの気づきが得られるのは3年後かもし
ません。そしてまた5年たったある日、何かの拍子にその気づきから、学びが
生まれるのかもしれないのです。

「振り返っても学べない」と答えを出すのは早すぎます。
そう答えを出したとたんに、学ぼうとする思考はストップしてしまいます。、

しかしだからといってこの質問に対する答えがない、というわけでもありません。
その時はなんて答えたのか忘れてしまいましたが、もし今同じ質問をうけたら
こんな風に答えようと思います。
   
振り返っても学べない・・・と思ったら、まず学びのアンテナをたてましょう。
 「今自分は何かを学ぶ時期に来ている」
 「私は今何かを学ばねばならない」
自分の意識に、こんなアンテナを立てておくのです。
学ぼうとする人には、学びのヒントとなる沢山の情報が引き寄せられてきます。
  友人との会話に
  偶然見た本の一ページに
  テレビのニュースに
  ドラマの中に
  すれ違う街の人々の中に
何らかの学びのヒントを見つけるかもしれません。

脳が学びモードになると、驚くほど情報が集まってきます。
 学びは、学びたい人のところには、最適な時間と場所を選んで、おり立ちます。

分かりやすくてソフトタッチな強さ

最近感じていることがあります。
それは、今時代は、分かりやすさとソフトタッチの強さを求めているのでは
ないかということです。

大震災直後からずっと感じているのです。

あの頃、NHKニュースで毎日毎日悲惨なニュースが伝えられ続けていました。
その時、それを伝えるアナウンサーによって、随分こちらの感じ方が違うと
思いました。

辛そうな表情で伝えられると、こちらも辛くなります。
冷静過ぎると、平気を装った風にも見えなんだか冷たく感じます。
いつもの何倍も、アナウンサーの表情や態度に敏感になっていました。
それだけ、ニュースを見る私たち心も傷んでいたのでしょう。

思い起こすと、武田真一さんというアナウンサーが出てくると、いつも何
 だか癒されている感じを受け、隠れファンになっていました。
 そういえば、彼は2週間くらい、出ずっぱりだったのではないでしょうか。

ネットニュースでは、次の総理大臣にふさわしい人は、というアンケート
 結果で枝野官房長官が一位でした。
他のアンケートでは、新入社員が一番望む上司は池上彰さんだということ。
そう言えば、あの戦場カメラマンの渡辺陽一さんも、超ソフトタッチです。

草食系男子というのが流行っていますが、ただ優しいだけではなく、
時代が求めているのは、冷静さ、わかりやすさ、そしてソフトタッチな強さ。

もしかしたら、変化に対応するための人類の進化は、ここら辺にあるのでは
ないかと思う次第です。
激しい変化に対応するためには、冷静に、分かりやすく、ソフトタッチに。

そういえば、お仕事の場面で、今年にはいって3人の男性と出会いましたが、
皆さん全員、分かりやすく、ソフトタッチ。

私も負けずに進化しようと思います。
 よし、今日から私も、冷静で分かりやすくソフトタッチ!



曖昧さに対処する

管総理が「一定のメドがついた段階で若い世代に責任を引き継いでいきたい」
と述べた瞬間、テレビのニュース速報は「管総理退陣表明」と伝えました。
その時私ははっきりと違和感を感じました。

  え、管総理、そんなこと言ってないのに・・・
  政治家的表現だとそう解釈できるのかなあ・・・

曖昧さとは、物事をはっきりさせないこと、あやふやにすること。
今、この曖昧さを巡って私たちは何かを学ぼうとしているのだと思います。

日本の伝統風土である「曖昧さ」は、被災地においては、譲り合いや美徳と
いった精神性の高さとして現れ、政治においては、いい加減さ、保身や逃げと
いった日本人の弱さに現れているように思えます。

曖昧さという言葉を、Webの語源由来辞典を引用させていただくと、

「曖昧とは、漢語に由来する言葉である。「曖」も「昧」も「暗い」を意味
する字で、暗くて確かでないというところから、はっきりしないやいかがわ
しいという意味を生じた。」と書かれています。


そして関連語をみて、私は更に納得しました。聞きなれた言葉がズラリ。

曖昧模糊、あやふや、いい加減、いかがわしい、うやむや、大雑把、おそらく、
お茶を濁す、及び腰、きちんと、暗い、けじめ、けりをつける、五里霧中、若干、
ずさん、ずぼら、多分、だらしない、ちゃんと、とことん、どんぶり勘定、
なおざり、生半可、漠然、はっきり、ファジー、ふしだら、紛らわしい、
優柔不断・・・・


大震災は、日本を生半可では解決できない状況に追い込んでいます。
まさに語源にあるように「暗い」できごとの数々。
そしてその中からドロドロのあふれ出る「曖昧さ」にどう対処していくのか?
日本がこの国難にどう立ち向かっていくのかが問われているのだと思います。

自分たちの力ではどうにもならない「曖昧さ」の前に立った時、
私たちに出来ること、それは身勝手や保身、怠惰に基づいた曖昧さを、
徹底的に排除することなのではないかと思うのです。

色々な泥仕合をしながらも、日本が一歩ステップアップすることを信じています。


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